日本帝国主義の、東北アジア侵略の歴史の正当化によって、国粋主義者の復活を鼓舞する司馬遼太郎の思想と歴史観を告発する
<シリーズ・1>
柴野貞夫時事問題研究会
当研究会は、07年2月2日付「歴史を学ぶ視点」で、
(http://www.shibano-jijiken.com/SEKAI%20O%20MIRU%20SEKAI%20NO%20REKISHI%202.html)
「江華島事件」から始まる、明治日本の朝鮮侵略の歴史への美化や忘却が、日本民衆の中に国家主義の復活と増幅を加速させている危険、その中で、「明治と言う時代」と、その「英雄達」をたたえる「国民作家」・司馬遼太郎の責任は、けっして小さくは無いと指摘した。
1910年の、「朝鮮併合」と称する日本国家による朝鮮民族への暴力支配から、100年が経過した今もなお、日本帝国主義が朝鮮民族にもたらした災禍への精算は、(日本国家としての)歴史的罪科への謝罪も賠償責任の履行に於いても、放置されたままだ。
それどころか今、朝鮮・中国諸民族の犠牲の上に展開された、帝国主義列強の国家(資本家の)利益をめぐる暴力衝突としての日清・日露戦争を、司馬遼太郎の歴史小説の歴史観に沿って、日本の近代化へ貢献した祖国防衛戦争であると「評価」し「正当化」する試みが、大衆的プロパガンダとして展開されていることを、座視するわけにはいかない。
日本放送協会(NHK)による、3年にまたがる‘スペッシャルドラマ‘「坂の上の雲」は、司馬遼太郎の原作に沿って、彼の国粋主義的歴史観、彼の朝鮮の歴史に対する無知、彼の歴史の偽造の濫造の数々を、忠実に再現しようとしている。
これは、販売実績1800万部を持つと言う「国民作家・司馬遼太郎」の、歴史的事実と思わせる「歴史文学」と、その根底にある、日本帝国主義創世期(明治)を正当化する歴史観を利用して映像化し、国民の国家主義的国粋的統合に収斂しようとする、今日の支配勢力の動きに他ならない。
この映像と、それに触発された司馬文学の読書を通して、歴史的事実をろくに研究することもなく、司馬の歴史文学が「歴史」だと勘違いする無数の司馬愛読者たちや国家主義者たちは、日本の歴史の罪を合理化し、日本民族の「優越性」と「自立できない朝鮮」と言う朝鮮民族に対する蔑視に満足感をおぼえているのである。当の司馬もまた、自分の「歴史小説」を、ある講演会で「フィクションではない。すべて事実を描いている。」と主張するのであるから、司馬が選択した「歴史的事実」しか知らない読者は、それが「事実のすべて」と理解すると言う訳だ。
今再び「映像」を契機に脚光を浴びた司馬の「歴史文学」は、その根底にある国家主義思想や、一国と世界にかかわる生産関係の中に、民族と人間の歴史発展の過程を捉えることが出来ず、歴史学で、もはや破綻している国家主義者の侵略正当化論でもある「アジア停滞論」「朝鮮停滞論」に固執した歴史観で支配されている。特に、朝鮮については、彼の紀行文や対談集、歴史小説での記述で、朝鮮を「自立できない国。自立しても生きることの出来ない国」と罵倒する。
その「停滞した社会」を「近代化に成功した日本」によって改革すると言う植民地合理化論、この福沢諭吉や伊藤博文とともに共有する司馬遼太郎の思想は、多くの日本の札付きの極右学者と国粋主義者を勇気付け、鼓舞している。
「在特会」や「救う会」等の極右団体による朝鮮人蔑視の思想や、在日朝鮮人襲撃、(朝鮮)共和国を狙う核武装論を公然と主張させる土壌を準備させている。
どこでどう間違ったか、一時は日本共産党に籍があったと自称する、現「新しい歴史教科書を作る会」会長・藤岡信勝(拓殖大学教授)は、「南京虐殺も、日本軍の従軍慰安婦も存在しなかった。」「大東亜戦争は自存自衛の正しい戦争であった。」と主張する歴史の捏造者であるが、「‘坂の上の雲’の時代と歴史の教訓」と題する文で、「近代日本が近隣のアジア諸国に対する凶暴な侵略者であったかのような、歪んだ歴史教育を学校で刷り込まれた世代にとって、初めて自国のまともな自画像を手にすることが出来た。『坂の上の雲』を読んで、初めてリアルなイメージをともなった歴史の全体像を描くことが出来るようになった。」と、司馬に感謝し、それを賞賛するのである。。
藤岡は、司馬の歴史小説から、「日本の本当の歴史を知った。歴史の全体像を描けた。」と言うのだ。
かれは、司馬の歴史観からヒントをもらい、「自由主義史観」なるもので、国家主義的史観による歴史の偽造と歪曲に精を出している。
拓殖大学長の渡辺利夫は、「新脱亜論」(文春新書)で、「日本の歴史を知ったのは、司馬遼太郎の‘坂の上の雲’からだ。・・国力と軍事力において圧倒的に劣勢であった日清・日露戦役の日本が、勝利したのは何故か、指導者の徹底的に怜悧な状況認識と果敢な戦略にあったと見て間違いない。日本は、日英同盟や日米同盟、つまり英・米のアングロサクソンの海洋覇権国家と結んでいた時代に孝福を手にし、中国ロシアと言った大陸国家への関与を深めたときが不幸な時代であった。今こそ、睦宗光よ出でよ。」と叫び、日本は直ちに集団的自衛権を持つべしと、中国と朝鮮に対する軍事的威嚇の必要性を主張している。
アジアの諸民族に塗炭の災禍をもたらした時代の始まりを「幸せな時代」という渡辺の主張は、司馬の歴史観の行き着く先を示している。司馬が「栄光の明治の英雄」と描き、渡辺がそれを鵜呑みにする睦宗光とは、日清戦争後も“日本が朝鮮に残ってほしい”と言う“要請文”の原案を、朝鮮政府が要請しているかのように偽作した、姦計と偽計を企んだ張本人である。司馬は、その歴史小説で、この事実に目もくれない。事実に当たらずに記述し、或いは事実を都合よく選別し、歴史的事実と思わせる記述をして、歴史の偽造を至る所でおこなっている。(われわれは、今後、この司馬の歴史観を糾弾する<シリーズ>の中で、更に具体的に明らかにしていくであろう。)
NHKは、『坂の上の雲』の視聴者むけ宣伝文句で、司馬歴史小説の役割を次の様に位置付ける。
「『坂の上の雲』は、国民一人ひとりが少年のような希望を持って、国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて、日露戦争を戦った「少年の国・明冶」の物語です。・・・この作品にこめられたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いない。」と。
司馬の歴史観に沿って、明冶天皇制政府による、遅れてやってきた日本帝国主義の侵略的膨張主義にもとずく「日露戦争」を、「国家の近代化と存亡をかけた(正義の)戦争と,何はばかることなく賞賛し、東北アジアと朝鮮の植民地支配を正当化し、それを現実世界に生かせと、民衆を扇動する日本放送協会は、司馬を国民作家と仰ぐ日本の民衆の脳髄に靖国/遊就館の展示説明にも負けない、歴史の歪曲を植えつけようと企んでいるのだ。いや、それと同じくらい、司馬の歴史小説を当たり前のように受け入れてきた日本の民衆の国家主義的土壌に対してこそ、まず、警告しなければならないのだ。
われわれは、今後、司馬遼太郎の歴史小説、紀行文、対談集、随筆、等から、彼の国家主義(世界の民衆の立場ではなく、日本の民族国家―日本の資本家階級の利害に、あくまでも立脚する思想)を暴露していくであろう。
司馬は、その著作において、@歴史的事実をどのように歪曲したか?A歴史的事実をどのように書かなかったか?B歴史的知識において(特に朝鮮史で)如何に不足していたか?C彼の朝鮮観とは、どのようなものであったか?D彼の「明冶を肯定」し「昭和を批判」すると言う意味は何か?そして最後に、彼はその著作通して、民衆に如何なる世界観と思想を撒き散らして来たのか?を明らかにして行くであろう。
それは、日本の資本家階級とその国家権力が、再び帝国主義的軍事国家への道に乗り出そうとしても、決して許さない、日本民衆の巨大な橋頭保を造るための戦いの一部でもある。
最後に司馬遼太郎の、根底的歴史観、民衆の戦いに対するぞっとするほどの否定的思想を示す例として、次の文章を抜粋する。
「大国は確かによくない。しかし、それ以上によくないのは、こういう環境に自分を追い込んでしまったベトナム人自身であるということを世界中の人類が、人類の名において彼らに鞭を打たねばならない。」(人間の集団についてーベトナムから考えるー中公文庫)
1940年の日本帝国主義軍隊よる仏領インドシナの占領が、日本天皇制国家による「大東亜共栄圏」を建前とした侵略行為であったことは明白な歴史的事実である。司馬の文章には、この事への、一つの言及もない。日本占領軍によるその後のインドシナ独立運動への弾圧、日本占領下のベトナム民衆200万の餓死者に対する戦争責任への、司馬の自国国家批判も無い。そして、日本軍敗走後のフランス帝国主義支配からの独立闘争をへて、なおアメリカ帝国主義の介入に対し戦い続ける帝国主義被抑圧民族への、如何なる歴史的言及も無い。日本と欧米帝国主義国家と戦ったベトナム民衆にたいする許しがたい冒涜の文章と言うべきであろう。悪いのは植民地支配した列強ではなく、それを受け入れた、後れたアジアの民衆の側だーと言うわけだ。
ベトナム民族にたいしても、日本よる「朝鮮の併合」が、「朝鮮半島と言う地勢的条件と近代化を行う能力の無い朝鮮民族」の側にあるとの自説を、至るところで披瀝する司馬の思想が貫かれている。
これを、アジア蔑視、自国民族優越主義(人種主義)―国家主義といわなくて何と言うのであろう。
司馬の歴史観と思想が、日本の国粋主義者の拠り所となっていることは明らかである(終―次号に続く)
● 以下に紹介するキム・ヨンボル氏の「日本主義の夢」は、1999年、ソウル・プルンヨクサ社から刊行された司馬遼太郎に対する韓国の言論人からの痛烈な批判である。われわれは、上記の、我が研究会による<司馬遼太郎の思想と歴史観を告発する・シリーズ>とともに、その全訳を数十回に分けて連載する予定である。今回は、この紹介文のみ掲載する。(ソウルからの著書の取り寄せとなるため、後数日かかる予定である。次週より連載の予定・請うご期待。)
「日本主義の夢」 キム・ヨンボル著 出版社・プルンヨクサ
初版日 1999−02-24
<著書の紹介>
この、1999年に刊行されたキム・ヨンボルの「日本主義の夢」は、21世紀を目前にした転換期の四つ角で、政治・軍事の大国化を追求する日本国粋主義者たちの正体と、彼らの主張する、日本アジア主義の危険性を深層的に解剖した本だ。
帝国主義・明治―昭和時代の、大陸侵略思想の歴史的軌跡を概観し、この「現代版復活の動き」に、思想的栄養分を提供した国粋主義的な人気作家・司馬遼太郎の歴史観・文明観を集中的に暴き出した。
‘明治の栄光’を叫ぶ日本国粋主義者達の全体に光を当てた本だ。
日本の最高の人気作家・司馬遼太郎から、挺身隊の記録削除を主張した(新しい歴史教科書を作る会の)藤岡信勝まで、日本列島の地層に敷き詰められている認識の根を探し出す。
日本の国民作家と呼ばれた司馬遼太郎は、歴史小説を通して日本人の‘自負心’を目覚めさせてやっただけではなく、日本の優越主義を絶やすことなく注入した。
著者(キム・ヨンボル)は、彼(司馬遼太郎)が、近代化に成功した日本と、停滞した韓国の植民地化を対比させながら、どのように韓国を貶(おとし)めたのかを見せてくれる。
著者は、妄言の解読法と独島領有権問題、平和憲法の改憲の動き等に対する対応方案を模索しながら、‘彼らの狭量な民族主義的試みが、むしろ孤立を自ら招くもの’と、警告する。
日本社会の保守化を背景として、復活している日本帝国主義の性格を指し示した本だ。国粋主義者たちの正体と彼らの主張する日本アジア主義の危険性を解剖するのに多くの紙面を割愛した。
ここで、日本主義と言うのは、1980〜90年代、顕著に海外侵略と膨張主義を指向し、‘明治の自慢’と‘明治の栄光’だけを指標としようとする人々を言う。
代表的な国粋主義者は、人気作家・司馬遼太郎である。明治の合理主義精神とリアリズムを讃揚する彼の史観は、日本政府の公式文書にまで引用される位、莫大な影響力を及ぼしている。
朝鮮は、朱子学を土台とする停滞した国だったと言うのが司馬の史観だ。
著者は、国粋主義者達の間違った史観を、条目ごとに批判する。
(次号に続く)
(訳 柴野貞夫 2010・1・15)
関連サイト
☆ 174 《<雲揚>号事件と<江華島条約>に、光を当てた強盗的蛮行》 (朝鮮民主主義人民共和国・労働新聞 2009年7月2日付け)
☆ 197 《間島大討伐》は、民族抹殺を狙った極悪な殺人犯罪 (朝鮮民主主義人民共和国・労働新聞 2009年11月15日付け)
☆ 115 道徳的低劣性の極致! 日本防衛省航空幕僚長 (朝鮮民主主義人民共和国・労働新聞論説 2008年11月11日付け)
|